普段、一生懸命に働いていると、「ああ、自分はこの仕事を作っている人間の一人なんだな」とか、「会社のメンバーなんだな」くらいの所属意識は持てる。けれど、それ以上に大きなものへ所属している感覚はなかなか感じない。
けれど、祖先を偲ぶお経を聞いているときに、「大きな歴史の流れの中で人はこういうのを繰り返してきたんだな、今その流れの中にいるんだな」とふいに思い至った。
都会の中で、目の前のこと、自分のことだけを見ていると、大きなものへの所属感は持ちにくい。でも、生とか死とか宗教とか、世の中では「B面」とも言える、普段は意識しない人間の本質とか自然の一部に触れると、自分が大きな流れにつながっているような不思議と超越をした気持ちになった。これが、通過儀礼の効果なのだろうか。
残念ながら一つひとつの行為にどういう意味があるのか?などは、正しく理解できていない。けれど、きっと同じようによくわかってない人はたくさんいたはずだし、わからないなりにお経を聞きながら、通過儀礼的な儀式を繰り返してきたのだろう。
正直、たとえば準備が大変すぎて誰かが疲弊するとか、身の丈に合わない予算がかかるとかで苦しい思いをするくらいならば、やる必要はないと思う。でも、時間がない……くらいの理由だったら、この感覚を味わわないのはもったいないのかもしれない。
最近、ずっと地に足がついていたと思う。だから、こうやってたまにもっと大きな何かとつながっていると感じたことで、なんとなく人間としての感性を研ぎ澄ませてくれるような気がしたのでした。スピリチュアルというほどではないけど。