「推す」のは手段。人生の目的にしない

最近、「推し」を持つことがとても重要視されている。コロナになってから、生きがいや楽しみを感じる機会が減っている上、タレント自身が自分で発信する場が増えているのも一つの理由だろう。

しかし、「推し」に生きがいを頼るのは危うい。まさに偶像(=アイドル)になっている「推し」には、自分の希望をまるごと一方的にぶつけてしまう。

例えば、私達が職場と家庭で違う顔を見せるように、彼らはあくまでも多面性を持ち、時の流れの中で変化していくひとりの人間なのだ。つまり、「アイドル」は彼らにとってのいわば職場の顔に過ぎない。

特定の人物を「推し」だと決めてしまうと、そのことを忘れてしまいやすい。すべてが完璧であることを一人に押し付け、期待値をマックスまで勝手に高める。それで、「裏切り」と感じる出来事があると勝手に落胆し、好き勝手にふるまう。

これは個人的な話だが、私はもともと二次元的なコンテンツや歴史が好きだった。2018年から、世界観が明確なある劇団を好きになった。彼らが提供するエンターテインメントは楽しくて、愛おしい。本当に大好きな場所であり、もらったエネルギー量を思うと、感謝は尽きない。

でも、事実とはして、リアルな人間の集合体を応援するのに限界を感じるときがある。全然違う人生を送ってきた他人が集団になることで生まれる問題があったり、一人の力じゃどうにもならない組織的な力学もある。

考えてみれば、会社だって政府だって、同じようなものだ。誰も悪くないまたは悪い人はかなり少数派なのに、大きな問題が吹き上がる。人間の集団に完璧はないのだ。

でも、やっぱり「推し」ているからこそ、完璧でいてほしい。一方的に、期待値をかけまくってるときにおきた矛盾が精神的疲労を生む。難しいし、つらい。

ある時、私の好きな劇団のメンバーの一人が「私達はお客様に明るい気持ちで帰ってもらいたいと思って舞台に立っている」と話しているのを聞いて、私ははっとした。

なぜ、手の届かない芸能人を一方的に応援するのか? それは、日常生活に元気がほしいからである。パッとしない生活だとしても、辛い仕事だとしても、将来に不安があるとしても。エンターテインメントを観ることでエネルギーを得て、人生を楽しくなる。そうやって、人生に彩りを添え、楽しく暮らすのがエンターテインメントを見たり、応援を刷る目的なのだ。

だったら、なんで元気がなくなるニュースであーだこーだ言わないといけないんだろう? もしかしたら、推すことそのものが自分にとっての人生の目的になっているのではないか……? もちろん、好きな人達が辛い目に遭うのは嫌だ。でも、同時に何もできないのに落ち込んでいても仕方ないし、ファンが落ち込んでいるのは相手にとっても本望ではないだろう。

物事の明るい面だけ見るのは難しいし、不安になる。でも、エンターテインメントは人生ではない。人生を豊かにする手段なのだ。自分を枯らさずに、豊かにするために、「推す」という手段を使うのだ。自分はなぜこの人達を応援しているのか? それは、私個人の人生を楽しくするため。それを忘れずに、自分にとっての良い応援の方法を考えていきたい。

有限会社ノオト所属の編集者・ライター/ ・コワーキングスペース「Contentz」管理人。 好きなものは、レトロ喫茶と懐かし系少女漫画、そして宝塚歌劇。平日休みは観劇がしたい。