昔から、「暇」だと思ったことがほとんどない。
行きたい旅先、食べてみたいご飯、観てみたい映画、学んでみたい科目、読んでみたい本……。
サブスクリプションや図書館など、安価または無料で楽しめるものが世の中には恐ろしいほどにあふれている。暇なわけがない。
ここに追い討ちをかけたのが、私の大きな趣味の一つが宝塚歌劇団の応援だ。このジャンルに至っては自分で焼いたBlu-rayがすでに300枚近くあり、多くがまだ観ていない作品である。1枚に4〜5作品入っていることを思えば、1000作はくだらない。さすが100年以上の歴史を誇る劇団。
1週間に2作みたとしても、10年はかかる。その間にも新作が提供され続けると考えれば無限の楽しみだが、同時になんと恐ろしいことなのだろうか。
仕事も決して暇ではなく、日々やることが確実にあり、コツコツとした作業を求められる。全然、暇ではない。
夜はちゃんと寝たいし、趣味の武道のために身体を鍛えておきたいし、パートナーとも充実した時間を過ごしたい。こちらも趣味として撮りためたドキュメンタリーを観たいし、その裏側にある歴史や社会制度を知るべく、日本史・世界史・地理・公民科目の学び直しもしたい。そして、英語も。
たい、たい、たい。やりたいことだらけだ。
だから、たまに「暇だったから(●●をやった)」という発言に驚いてしまう。
しかし、こんなのは今に始まったことじゃない。私は昔から積読をしていたし、録画も溜めていた。高校生の頃から、英語と歴史は好きだったし、得意だったわけではないくせに強く執着をしていた。振り返ってみると、自分が好きなものなんてちっとも変わっていないのだ。
しかし、それぞれのジャンルを多少深掘りすることができても、十分に極められているとは到底言えない。残酷に聞こえるが、あるジャンルを極めるのは一生かけてもほとんど無理だろう。
やりたいことを全部一気に、少しずつ掘り進めていくようなスローペースな開拓。それでも、数年前よりも確実に知識は深まり、自分の見方が変化をしているのを感じているし、作品同士の連関も感じている。
長い、長い、「やりたいことリスト」。その中では露と消えていったものから、しつこく残り続けたものまでさまざまだ。しかし、今になってわかったこともある。
それは、コンプレックスのように残り続けた「やりたい」の存在だ。自分がどうしても諦められないものがこれ、と思えるようになってきた。過去から連綿と続く、私自身のお墨付きの執着心とでも言えばいいのだろうか。
そういう「執着心」をずっと抱えているのは楽じゃない。けれど、私は人生に暇を持て余さない。そこに自信があるのは、実は悪いことじゃない気がする。
これからも、「暇」だと思うことはないだろう。でも、それでいい。そうやって、執着しながらやりたいことをやって生きたいくのだ。