憧れと劣等感と、それから、それから

夕ご飯は、新しくできた近所のお蕎麦屋さんに足を運ぶことにした。その場所は地域で愛されたお寿司屋さんの跡地で、閉店の時には随分と惜しまれたと聞く。

違う土地からやってきたお蕎麦屋さんも、別の土地では大変惜しまれながら去ってきたのだという。なんとも不思議なものだし、うまくいかないものだ。大人気という触れ込みの「コロッケそば」は、美味しかった。

食事の間、多くの人は何かを考えているのだろう。誰かと食べるときは会話のために、一人のときは自分のために。目の前の食事に集中し、舌だけに意識を向ける機会はほとんどない。

今、何か一つに集中をするのは簡単なことじゃない。毎日、考えたいことも決めることも山ほどある。常に何かを稼働させた状態で生きている。何かを振り払う方法はたくさんあって、その一つが好きなコンテンツに夢中になることだと思う。

たとえば、映画とか。昨日発表されたというアカデミー賞について、先輩が詳しく教えてくれた。今年の作品賞はラブストーリーだが、通年はドキュメンタリーや社会性のある作品が選ばれることが多いらしい。いくつか挙げられたタイトルは、歴史好きとして興味をそそるものが多かった。

「アカデミー賞」という言葉をは知っていても、その選び方もその権威も、今年何が選ばれたのかもさっぱりで、自分は本当に何にも知らないのだなぁと思い知る。

田端慎太郎さんは著書「MEDIA MAKERS」の中で、(映画館で見る)映画は最初から最後まで拘束される「リニア」なコンテンツと紹介していたのを思い出す。だからこそ映画監督はテレビのプロデューサーよりも敬意を払われるのだとも。

最近はこの「リニアさ」を排除したコンテンツに向き合うことが多い。短く、速く、わかりやすく、答えを渡そうとする。とにかくとにかく、インスタントに。

それはスマホで細切れにコンテンツを消費するのが当たり前になってしまったからだったり、情報量が多すぎてしまったりいろいろな原因はあるのだろう。

私のような堪え性のない人間は、映画を含めた「長く拘束されるコンテンツ」への苦手意識がとっくの昔についてしまっているようだ。そこには、それを楽しめる人々への憧れや些細な劣等感も見え隠れする。

でも、知らないことを知るのは面白い。だからいつか人生のどこかで時間ができたら、ずっと映画を見るような、ずっと続けることで意味がわかる娯楽に興じる日々を送ってみたい気もする。ただ、その楽しみ方をする時がまだ来ていないのだと思う。

その代わり、と前置きを切って言い訳すると、同時に何かを消費するのは得意である。歩きながら、走りながら何かを聞くとかね。食べながら、考えるとかね。さて、今日も今日とて立体音響を聴きながら。

有限会社ノオト所属の編集者・ライター/ コワーキングスペース「Contentz」管理人。 テーマは働き方・学び方・メディア・朝ごはん など / 休日は喫茶店と東京宝塚劇場をうろうろ