どうやら前回で、この日記は10回も続いたらしい。たった10回だけど「続いていて、凄いね」と言ってくれる人がいたりする。大したことないのにと思いつつも、くすぐったけど自分で自分も褒めてみる。偉い偉い。ぱちぱちぱち。
日記を書くようになってから、たくさん小さな幸せが日々転がっているなぁと思うようになった。
たとえば前髪を綺麗に巻けたこと、あり合わせで味つけたナスの煮びたしが美味しかったこと、Wordの不調に焦っていたら通りすがった先輩が助けてくれたこと、なんとか立て直せそうな仕事のスケジュールのこと、近所に新しくできるお店が面白そうなこと、帰り道に駅まで雑談ができること、合間に読んでいる本が面白いこと。それからそれから。
でも。あれれ、私にとって幸せってこんな感じだったっけ?
ほんの数年前、大学生の頃は”刺激”こそが幸せだった。最初は地元から大都会・名古屋に出られただけでも面白かったけど、そこから徐々にエスカレートしていった。
ビジネスっぽいことに挑戦して社長さんと話して、貯金をしてアジアに留学して、学生NPOを仕切ってみて、愛読していた雑誌の編集長を名古屋に呼んでイベントして。次から次へ、新しいことを試しては失敗して成功して。
結果ちゃんと段取りして、SNSを使えば何でもできる時代なんだ、とわかった。たとえ私みたいな如才ない小娘でも。
そしてSNSを通した東京は、もっともっと刺激いっぱいで面白そうな場所だったから上京した。
インターネット上の刺激的なやりとりは、今も見ていてすごく楽しい。だけど私自身の人生の幸せはもっと普通に、身近にある幸せにも満足かもと思ったりする。26才って、もう脳細胞とか遺伝子レベルで落ち着いちゃう歳なんでしょうか。
学生の頃はキラキラしてたのに、社会人になると何も楽しそうなことをSNSに書かなくなる現象が嫌いで、そんな大人にはなりたくない、と思っていたけれど。
SNSで見かけない人々の多くは、SNSの窓からは見えないその人自身にとっての幸せを生きている。それは良くも悪くもなくて、その時に幸せに過ごすために、その人が必要なものを選んで生きているだけなのだ。
その人なりの幸せを、その時々に自然に定義しながら。
それぞれの選択には優劣はなくて、ただ選んでいるものが違うだけなんだろう。私の幸せも、自分の定義の中でちゃんと選んでいるような気がしてる。
そういえば去年会った時はまだガラケーユーザーだった幼馴染は、今どんな1日を過ごしているのかなぁ。彼女の生まれたばかりの息子の成長も、そろそろ見に行かないと。