今、映画館は『鬼滅の刃』で大変なことになっているが、私たちミュージカル好きもこぞって映画館のチケット取りをしている。韓国版エリザベートの映画館上映があるからである。
私も某都内映画館のチケットを取るために、0時の発売時間まで待って挑んだ。結果、無事に取れた。しかし、2分ほどで売り切れるほどの盛況ぶりだ。期間限定上映に重ねて、鬼滅の影響で狭いシアターがあてがわれたためにチケットの枚数が減り、完全に争奪戦である。映画館のチケットってこんなにとれないものだっけ?
さて、それくらい楽しみにしていた『エリザベート』はいわゆるミュージカルファン層の中で超人気作品で、日本で来年で初演から30年を迎える。1996年の初演は宝塚歌劇団が行い、その後、東宝にていずれも小池修一郎演出で上演されてきた。原作はウィーンミュージカルなので、日本語で観られるのは小池版のみだ。しかし、今回は韓国版が字幕付きで映画館で見られる。しかも、結構違うらしい……! そんな評判を聞いて、楽しみにしていた。
これまでに私が生の舞台で観たエリザベートは2回。東宝版(井上・花總)と2018年宝塚歌劇月組版(珠城・愛希)である。さらに今回は作品比較楽しみにしていたので、前日に自宅で録画してあった宝塚歌劇版「エリザベート」(2014年・花組)もあらためて観ていった。
実際に見てみると、耳慣れた音楽がここまで歌詞と演出の違いで別の作品に見えるのか、と驚いた。韓国版のビジュアルや歌、そして踊りはもちろん素晴らしい。最後のダンスは韓国語だと「マジマチュー」らしくて耳に残ったし、なんか音もかわいい(笑)。最後の愛は「マジマサラン」って言っていた気がする。
ビジュアルもよい。トートは短髪でトートダンサーはたくましかった。あと、演出もかっこいいトートが降りてくるリフトは予想外だったし、『ミルク』は迫力が違う。あとルキーニがいいね〜。全体的に映像のアングルの良さも合わせて「洗練された」印象が残った。
そして、何よりもいいなと思ったのが主題がクリアーだったことだ。私の個人的な印象だが、宝塚版は「厳しすぎる義母と古いしきたり、分かり合えない夫がいる中で自由を手に入れるか?」を割と見た目の美しさを重視して描いている。
宝塚歌劇では、主人公は男役が演じるトート(死)である。それもあって、とにかくビジュアルのインパクトが重視されていて、ゴシックの怪しい雰囲気を出すことや、より直接的にはわかりにくい詩的な表現が多い。これは、タカラジェンヌが演じる上での禁じ手である「すみれコード」に沿ったであるし、トップ娘役が演じるシシィがあまり嫌われないように描かれている。そのために、義母であるゾフィーはただただ嫌な義母のポジションに収まっている。
それに対して、韓国版の主題は「自由はほしいが、その先に真の幸せがあるのか?」が主題を戦いのミュージカルとして演出されていた。そして、主役はもちろんエリザベートだ。
韓国版のシシィは、正直日本ほどは愛されにくそうだなという印象。語り手のルキーニに「へどが出るほどのエゴイスト」と途中で言われるほどに、<私の自由>を希求し、戦い続ける。正直、一歩引いてみると、義母・ゾフィーの方が真っ当にオーストリアの国政を考えている苦労人にすら見える。エゴイスティックに自分の自由を求めて彷徨うシシィをみると、「そりゃ嫌な目にあったけど、皇后になったんだからある程度はやることあるでしょ」とすら思えてくる。
そして、シシィは20年の放浪と家系の宿命とも言える精神病におかされていくと思わしきシーン(死者との会話、精神科病院の方は落ち着くなどのセリフ、同じ家系の不運な人々の紹介)などを経て、大好きな父(故人)が枕元に立ち「それがお前の求めていた本当の自由か?」を問われる。
私はこの問いかけにぞっとした。今の世の中には「自由を求める人」はたくさんいる。結婚してもしなくてもいいし、子どもも作っても作らなくてもいいし、旅をしつづけるのも自由だ。そりゃ、そうだ。でも、その先に本当に自分の幸せがあるかを考えた上での選択か?を問われた気がした。
シシィはどうしたら幸せになったんだろう。所属する場所の古いしきたりとか人間関係とか、そういう煩わしいものってなかなか逃げきれないし、王族ならもっとだろう。だったらある段階で、逃げ出すのをやめて、なんとかうまく付き合う方法、少なくともコミュニケーション(対話)を重ねることは大切だったんじゃないかな。ゾフィーが死んだあととか。
憧れた父のように旅をし続けても「虚しい人生」になったのは、家族のような深い人間関係の希薄さが問題だったのだと思う。シシィの立場だったら、フランツともルドルフとも、どうにでもやりなおせたんじゃないかな、と思うと悲しい。
上から目線の観客で申し訳ないが、若干説教くさい主題である。ただ、「あくまでも自由を手にいれる」までを描いた宝塚版よりも、さらに一歩先に踏み込まれている気がした。
今、私自身は韓国版エリザベートの方が刺さった。よりすっきりとした主題、そして力強くも儚くて不安にさせるエリザベートの複雑な心境のほうが現代的な問いかけがあるからだ。
しかし、初めてのエリザベートは宝塚版だからよかった気がする。もし韓国版を先に見ていたら、普通にシシィが嫌いになっていただろう。その反面、ある意味で宝塚版のエリザベートはそんなに嫌なやつじゃないので、初心者でも安心して観ていられるという大きな良さがある。
今回、エリザベートについてたくさんの意見があがったのは良かったと思う。やっぱり30年間も演出を変えずにいられる時代じゃなくなってきたんだと思う。多くの人が映像で過去作品を見られる環境で、実際にほとんどのミュージカルファンは何度も同じエリザベートを見ている状態に変わってしまった。
いずれの作品も商業的成功を考えた上で、その時代の演出家がその時代の観客に合わせようと作られているはずだ。今、韓国版が好きという人の声もXなどでたくさん聞くので、愛されるだけではなく弱さ、儚さ、ダメさなども持ち合わせ、もっと力強く戦う「令和の別演出版エリザベート」を日本で作ってもいいのではないだろうか。
そういう意味で、韓国版ミュージカル・ベルサイユのばらの演出も気になるし、観たいなぁと思っているので、ベルサイユのばらにも挑んでほしい。(なんたって日本では50年同じことやってるわけで……)
最後に一つ。フランツ・ヨーゼフへ。エリザベートを信じ、ひたすら待ち、愛しているフランツは最後にはあまりにも可哀想である。つらいよ……、嫁選びを間違えたのが人生の致命傷すぎる。本当に合う人間と結婚しないと、お互いが不幸になるというのは当たり前だけど、全員が刻むべきことである。なんて難しいんだ、結婚。