without a voice

将来、こんな病気をしたらどうしよう……。そんな妄想をする時に、私は大きく2つを思い浮かべる。それが「目が見えなくなったらどうしよう」と「声が出せなくなったらどうしよう」だ。これを選ぶのは、どちらもちょっとリアルだからだと思う。私は目が悪いし、喉が弱い。

特に喉は現時点でもまあまあ深刻に弱くて、年に数回は話せなくなってしまう。ちなみに今がちょうどそのタイミングで、人生X回目の筆談期間である。わーん、まただよう。

喉は自然治癒のようなものなので、とにかく使わないことが一番である。よく寝れば治るというものでもないため、早く治す努力を求められるのもなかなかつらい。内服ならばトラネキサム酸、スプレーならばアズレンスルホン酸ナトリウムあたりをバシバシ使いつつも、結局は待つしかない。

今回は、声が出なくなるコミュニケーションのベテランとして、いろいろ考えてみようと思う。私は声が出なくなる時、健康的な悩みよりも、とにかくコミュニケーションがうまくできなくなる辛さがある。経験上、問題は3つほどに分けられる。

1つ目は、相手のアテンションを引けないこと。誰かに自分が伝えたいことがあると伝えるためには、音で気を引くのが一番簡単である。しかし、それができない。とにかく相手の視界に入るしかないし、見える距離にいなくてはならない。その場合、こちらは相手が見ている方向をとにかく意識しているが、死角に入られたり、相手がパソコンやテレビを見つめているとそれはなかなか難しい。

2つ目は、対話にタイムラグが生まれること。もちろん筆談(LINE含む)は可能だが、相手を待たせてしまうため、そのコミュニケーションの温度感が変わってしまう。これによって相手はいい話し相手だとくれなくなったり、場合によっては知性がない相手に接するような態度を取られることもある。対策はとにかく、筆談で素早く短く的確に返答することだと思っているが、まだまだ模索中である。

3つ目は、相手が話しかける時に躊躇してしまい、コミュニケーションの絶対量が減ること。「発話」と「筆談」は言うなれば、英語と日本語のようなもので、相手が自分と同じコミュニケーション言語を使えない状態にあると言える。日本語と手話も近いかも。

さらに、喉を痛めているとは体調不良の要素もあるので、どこまで話しかけていいのか、とにかく迷わせてしまう。親しい人でも、大体の場合は躊躇してしまって「お大事に」以外のコミュニケーションが生まれなくなる。喉の調子が悪い時というのは、意外と喉以外は大丈夫だったりするので、コミュニケーションできないのは単純に悲しいし、一層寂しさを感じる……。

以上、どれもこれもなかなか解決が難しい……。だがしかし、私にとっては一生付き合っていかないといけないレベルの体質的課題。ということで、本当は腫れ物に触るような対応ではなく、親しい人と築くべきなのは、「一種の異言語コミュニケーション期間」として普通に接してもらえる関係である。

それには、相手に今の状況をきちんと理解してもらうことと、普通の姿勢でいてもらうことなのだが……。声を出せない時ほど、この複雑な想い自体をきちんと伝えるのが難しい。まずアテンションが引けないし、長い会話を聞いてもらえなくなっちゃうから。

こういうのきっと福祉の世界ではよくあるんだろうな。だから、平時から障害や多様性への理解をする姿勢が重要なのだ。さて、そう思うと人生は毎日が学びの実践だし、挑戦である。今日も、明日も。

有限会社ノオト所属の編集者・ライター/ コワーキングスペース「Contentz」管理人。 テーマは働き方・学び方・メディア・朝ごはん など / 休日は喫茶店と東京宝塚劇場をうろうろ