「機嫌をとる」≠怒りの否定

喜怒哀楽というけれど、感情のなかにネガティブとポジティブが明確に色分けされているのを感じる。いい感情、悪い感情、みたいな。特に最近は「怒り」について考えている。

こどものころから、先生や家族など周りにいるたくさんのおとなたちの怒りを見てきた。この感情をぶつけられると、基本的に受け手としては不快というか、嫌な気持ちになる。

確かに、相手に対して怒りをぶつけても、事態は進展しないかもしれない。でも、だからといって「怒りを感じていても、仕方ない」と思うのも違うんだろうなと考えるようになった。

「怒り」は感情である、物事が積み重なったあと心に生じる結果である。だから、ある出来事が起きたあとの結果だけを否定しても、怒りが消えるわけではない。むしろ、まずは「ああ、私って怒っているんだな」と怒りの感情を認めて、どういう出来事の積み重ねで怒りに繋がったのかを分析し、行動するべきなんだろうな。

年齢や経験値があがるごとに、周りをケアする役割がじわじわと降り積もってくる。ときには雑用とまで呼ばれる。これが結構難しい存在なのだ。なぜか、同じくらいのベテランでも「いい人」のほうにケアの役割は押し付けられている。そうすると、「いい人」になると仕事が増えるので、みんなが無関心を装う……。うーん、これは嫌なコミュニティだよね。

特に家でも職場でも趣味の場でもこれが発生すると、どんなに愛情深い人でもメンタルポイントが少しずつ削られつづけ、そのうちにヘタをすれば自分だけをケアできなくなり、セルフネグレクト一直線である。これはほんと〜に危ない! 

片付け系の番組を見ていると、それぞれの出演者が「部屋を片付けられないというセルフネグレクト」に至った過程がすごくよく見えて勉強になる。本当に自分にも愛を注いであげて……。愛情深い人ほど、知らないうちに周りから愛を求められて食いつぶされてしまうから。ときには「それはあなたの問題でしょ」「知らんがな」みたいな姿勢が必要なんだな、と思う。

他人に無関心というか、ちょうどよく他人をケアをするのが難しい時代だ。だから、怒りを感じたら、まず誰よりも自分を大切にしたほうがいい時期が来ている。ケアの優先順位1位は自分だ。ご自愛とか、機嫌をとれっていうのは、怒りを否定せよってことじゃないはずなんです。

有限会社ノオト所属の編集者・ライター/ コワーキングスペース「Contentz」管理人。 テーマは働き方・学び方・メディア・朝ごはん など / 休日は喫茶店と東京宝塚劇場をうろうろ