なぜ優柔不断になるのか

春の嵐の天気から一変、穏やかな朝である。気持ちの水面もすーっと落ち着いた気がする。なぜか昨日は夕方から微妙に体調を崩してしまった。ダメな時はダメなのに、ちょっと諦めわるく仕事してたんだけど、やっぱり調子がでなかったので、早めに撤退するべきだったな。予定、減らすことも大事だ。

さーてさて、私は旅が好きであるが、世の中には全然旅をしない人が多いらしい。特に愛しているのは、一人旅で、現地で人と会うことはあるけれど、ずっと一緒にいるなんてことはほぼない。だってさ、もう二度と来られない地でずっと同じことをしたい、なんて可能性ある??

もっと言えば、シンプルに集団行動が取れない。同じエンタメを両方とも楽しみたい……とか、ただのんびりしようみたいな目的があるならまだしも。……というわけで、わずかな例外をのぞいて、集団行動はある程度、あきらめモードに入っている。

自分が疲れるなぁと思う瞬間の一つが、他者の優柔不断さに付き合わされるときである。悩んでいても、何か変わるんだろうか。この時間は、双方にとってのベストを探しているのではなくて、自分が責任を取らされない方法を探しているだけではないのか。誰もが責められたくないのはわかるけれど、誰かが決めないといけない。

一人旅は楽である。どんな責任も自分のものだ。失敗も成功も、特にない。だからこそ、複数人で何かを決める時の責任の押し付け合い、あれがとても苦手だ。

結局、それを回避するには双方がリーダーシップをもって、自分の意志で物事を決めないといけない。「夕飯、何が食べたい?」「休日、どんなことがしたい?」は結論を問うているのではなく、ブレストでアイデアを出してほしいわけで……。意思決定プロセスを押し付けず、主体的に関わってくれと言っているのだ。

なんだか結局、嵐のようなエッセイになってしまった。主体性、発揮しよ。

有限会社ノオト所属の編集者・ライター/ コワーキングスペース「Contentz」管理人。 テーマは働き方・学び方・メディア・朝ごはん など / 休日は喫茶店と東京宝塚劇場をうろうろ