大西寿男さんの『校正のこころ』を読みました。テレビ番組も話題になっているのを見て、もう少し深く主張を知りたいな、と。
本書の内容は、校正実務・技術論を超え、大西さんの文字への美意識、仕事や社会への問題意識が映し出されている。特に、校正と編集の視点の違いについてもかなり実践的に深ぼられていて、編集者としてはすっと背中が伸びる。
印象的だった部分はたくさんありますが、その一つが校正は非常に大変で頭脳も体力も使う仕事だというところ。確かに、膨大な情報の中から、限られた時間の中でほんの僅かな指摘事項を見つけ、さらに抜け漏れがわずかでもあればそこを指摘されてしまう……。
ものすごい集中力がないと、仕事として成立しない。だからこそ、優秀な校正者は休む術についても知っていると書かれていた。確かに、これは重要である。仕事としてものを作り続けるのは職人芸だ。
少しずつ改良をして、諦めずにコツコツと続ける。そのためには、継続できる自分の状態をつくることが大切だ。つまり、自分を回復させる技術が必要なのだ。
しかし、仕事のやり方以上に、回復技術は誰も教えてくれない。せいぜい、よく寝ようとか、お風呂に入ろうとか、その程度だ。結局、細かく自分にあった方法は徐々に見つけるしかない。そして、回復は仕事場ではなく、「暮らし」の中で起きる。
昔は、専業主婦たる女性がその回復業務を担っていた家庭も多かっただろうが、今はそういう時代ではない。それどころか、家庭の中で複数の役割を担い女性自身のほうがクタクタになっているケースをよく聞く。
受験と違って、仕事は長い長いマラソンである。結局、自分の回復をちゃんとさせる方法を見つけて、誘惑はありつつも、闇落ちせず、心身の状態を維持することが大切なんだよなぁ。
もしかしたら、暮らしに関する情報に注目が集まるのは、家庭の中で回復の担い手が減り、誰もが自分で自分を回復させないといけないからかもしれない。誰か一人に「ケア」を押し付けるよりは健全だと思う。でも、まだ誰もが自分を癒す技術を身につけられる環境ではないので、過渡期なのかな。
最近、慌ただしい中で、校正面でのミスをしたことに猛省していた私……。技術的な未熟さもありますが、対応できるだけの心身の余裕がない環境・状況・体調だったことは問題点だったなぁと思い返す。
本書にも書かれていたように、余裕がある制作現場はほとんどない。だからこそ、それを前提に組み立てていかねばいかんのだな。